『骨の髄まで召し上がれ』8話

8話

「すみません……」
「残りの四万円は今返してもらおうかな」
「えっ……」

 淡路はテーブルにあったメニュー表を取って俺に渡した。それと同時に馴れ馴れしく肩を組んでくる。そしてはしゃぐような大声を響かせた。

「矢名瀬くん、シャンパン入れるのー! 君も思い切ったね!」
 周りの視線が一気に集まった。どの顔も下世話な好奇心に満ちている。
 俺がなんの酒を入れようがお前らには関係ないだろうが。
 俺は注目を集めた淡路よりもそれにホイホイと乗っかる周りの人間に腹が立った。木村がさっそく茶化してくる。

「矢名瀬、お前やるなー! ドンペリ入れろ、ドンペリ!」
「ああ、ちょうどいいんじゃない」

 指さされたシャンパンの値段は四万円。顔から血の気が引いていく。ゼロを何度も数え、四千円でないことを確認した。ボーイを呼んだ淡路を慌てて止めて、白状する。

「待って、待ってください。俺お金持ってないですから」
「大丈夫、ここツケが利くから。怖いお兄さんに免許証見せれば次の給料日ぐらいまでは待ってくれるんじゃないかな」

 冗談じゃない。これ以上借金増やしてたまるか。
 借金への恐怖で怒りが湧いてきた俺は反論を試みた。組んできた腕を払い、距離を取って相手を睨んだ。

「こういうの、パワハラなんじゃないんすか。脅しと同じじゃないですか」
「脅し?」

 彼の眉がぴくりと跳ね上がり、心外そうに俺を見る。 

「渡された金の意味も確認せずに使っちゃったのは君だろ。あんな大金置かれて返そうって思わなかったの?」
「だって……、くれたと思ったから」
「じゃあ、お礼ぐらい言わないと。君、社会人でしょ」

 子供に諭すような言い方に唇を噛んだ。
 あんな金、返せばよかった。どうして使ってしまったんだろう。
 今更しても仕方がない後悔に胸がいっぱいになる。
 学生時代に借金で苦しんだ思い出が蘇る。返済するお金を飲み代に使ってしまい、後悔するのはいつもしつこく着信が鳴ってからだ。
 どうして俺はいつもこうなんだろう。
 低く冷たい声が悲観的な考えに陥った俺を現実に引き戻す。

「ドンペリ、入れるの? 入れないの?」

 どっちにしろ、地獄だ。

 この男は口先で巧妙に物事を運ぶプロだ。伊藤なんかより狡猾なやり方で相手を追い詰める。そうして猿山を上り詰めた男だ。
 俺はもう白旗を上げるしかなかった。

「……無理です。入れれません」

 誰とも目を合わせないよう俯いた。弱々しい言葉は周りの喧騒にかき消されてきっと隣の淡路にしか聞こえなかっただろう。惨めさに涙まだ出てきた。こぼさぬようになんとか耐えた。彼はしばらく何も言わなかった。一瞬盛り上がった場も見守るように静まり返っている。
 衣擦れの音がして、淡路が軽く手を上げたのが分かった。

「ドンペリちょうだい」
「えっ」

 驚いて顔を上げると淡路の勝ち誇った笑顔が見えた。半べそかいた無様な俺の顔を舐めるように見つめられる。「大丈夫?」なんて白々しいセリフと共にハンカチを差し出してくる。いやらしい根性とは裏腹に行動だけは紳士的だ。
「ごめん、ちょっと言いすぎちゃったね。僕の奢りだから安心して今日は飲んで」
 顔の間近で差し出されたハンカチを仕方なく受け取ると、ぽんと軽く背中を叩かれた。そして席を移動する時にそっと耳打ちされる。

「トイレで待ってるよ」

 あまりの悔しさに渡されたハンカチを力いっぱい握りしめた。
 悔しい。弱いふりして俺を騙した淡路にも腹が立つし、ろくに反論もできなかった自分にも腹が立つ。

 周りからは説教されてへそを曲げていると思われているのか俺に近寄る人は誰もいない。涙が零れそうになってもこのハンカチだけは使いたくなかった。
 ドンペリが運ばれてくるとキャストたちは盛り上がり、コールが響いた。むくれている俺にも「飲め」と言うので、コールが終わるより早く一気に胃に流し込む。

 もともと酒は強いし好きだ。
 すぐに二杯目が注がれ、それも一気に飲み干した。
 味なんてわからないし、全然酔える気がしない。それでもこの狂宴を楽しむ大人たちはその飲みっぷりを喜んだ。

 盛り上がってる中で、淡路が席を立った。俺に視線で合図することも忘れない。酒の力もあって、その顔を思いっきり睨み返した。

 誰が行くか。誰が……誰が……。

「矢名瀬、大丈夫か?」

 悔しさに震えていると木村が声をかけてきた。相当飲んだのか顔が真っ赤だ。

「淡路さんも気性が荒いところあるけど、優しい人だから。お前のこと考えて言ってくれてるんだと思うぜ」
「はあ……」
「お前ももっと気合い入れて仕事したら、きっと認めてくれぜ。俺の若い時なんかさー……」

 慰めてくれるのかと思ったらわけのわからないことを言い出した酔っ払いだ。説教されるのも面倒だなと思って視線をそらすと、スマホに通知が来ていることに気づいた。

「あ、すみません」

 失礼を承知でスマホを開いた。木村が何やら喚いていたが無視だ。メッセージを知らせる画面。相手はユウマだ。

『今度いつ飲みに行く?』
「ああ……」

 思わず声が漏れてしまった。あれからユウマとはずっとメッセージをやり取りしている。会いたいと言ってくれるのは嬉しいが、金が尽きてしまい先延ばしにしていたのだ。金がないなんて言えなかった。せめて彼の前だけでは格好をつけたかった。 

 トイレから淡路はまだ出てきていない。斜め向かいの席から木村は未だに説教とも愚痴とも取れないことを喚いている。俺はそこから逃げるためだと自分に言い訳をして、席を立った。


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